秋の病
無
から有が生まれることは無い。
と、僕は思っている。
芸術だって科学だって感情だって、何もないところから急に現れたりはしない。
なにかを生み出すに、それだけなにかを仕入れなくちゃいけない、というのは、もう絶対に揺るぎない真実だと信じている。(別に信じる必要もないが)
なぜ、急にこんな事を書くのかと言いますと、
出力に対しての入力のパーセンテージの低さを痛感しているから。
多分情報を仕入れるだけでも駄目で、情報同士の掛け合わせだったり、タイプの違う情報が必要になってくる。
例えば、おいしいお米の種類と、上手なご飯の炊き方を知ることで、初めておいしいご飯を食べることができる。見たいな。
つまり「情報」と「方法」であると仮定する。
別にお米に例える必要なんて無かったな。
でも、おいしいお米は本当においしいし、まずいお米は全然おいしくない、という事が最近になってようやくわかってきた。
炊飯器だけ変えても意味がない。
むしろ、お米の質が味を最も左右するのだ。
これはなにかの例えじゃなくて、お米の話。
情報と方法
今の世の中で情報を仕入れることは、ご存知の通りめちゃくちゃハードルが低い訳だけど、方法を会得するのは大変だ。
これは今の時代だからとか関係ない。
時代を追うごとに知恵が堆積していくので、
ある程度は簡単になっているとは思うけど。
とにかく、その「方法」の部分が圧倒的に足りていない。
これはもう完全に勉強不足のTAMAMONOなので、
逆を言えば勉強さえすれば手に入るMONOなのDA☆
じゃあBENKYOUすればいいJANとおもうGA、
BOKUもそう思う。
NAZE BENKYOUできないNOだろう。
BEKYOUってNANDA?
ARE MOJI GA OKASHIKU NATTEKITA