「海援隊」というのは、海を応援するのだろうか。それともライフセーバーなのか。その謎にせまる。

海援隊についは、やっぱり迫らないことにした。

 

早く実家から出たい、という思いが日ごと強くなっている。

中学生くらいのころに、ものすごく一人暮らしをしてみたくなった事があって、それでもやっぱり中学生だから妄想で止まっていた。「とにかく家にいたくない!」みたいな、家庭や家族への不満ではなかったから、家出をしようとは思わなかったけど、働きだしたらすぐに家を出てやるぞ、とか妙に意気込んでいた気がする。

それでまあいろいろとあり、いざ働き出してみると、お金という壁にぶち当たるわけです。大人に向けての第一歩って感じでしょうか。

 

会社に行きやすい距離で、風呂トイレ別で、できればベランダがあって、日当たりが良くて、近くにおいしいレストランがいくつかあって、、、みたいなことを考えると、やっぱり家賃はそれなりに上がっていき、たとえ借りてみたとしてギリギリの中で何とかやりくりしながら苦しい生活をを送り、「実家戻りてぇ〜」みたいなことばっか考えてるのは、なかなかしんどい気がする。

ていうか、その条件を満たしている物件こそが実家なわけで、そう考えるとムリしてまで引っ越す意味とかないのかなーなんて思うわけです。

 

あと、高校生の時は、隅田川沿いの高層マンションに住みたいって願望があった。

ある時期から自転車で無意味に遠出してみることにはまってて、友達との小旅行とは別に一人で浅草のあたりまでよくサイクリングをしていた。

とりあえず甲州街道にでて新宿まで出てみる。ここまではまだ日常。

そして、新宿を通過して四谷あたりにくると、行動範囲を脱し始めたなーって感じがしてきて、そのまままっすぐ皇居にぶつかって、そこからどんな道だったかはあんまり憶えていないけど、とにかく浅草のほうに近づいていった。

 

たしかあの頃はスカイツリーが建設途中だった。

まだ半分くらいの高さの時に初めてその姿を見て、あんまりかっこよくない。そんで悪の組織のアジトみたいだなーとか思ったことを憶えている。

その流れで(理由はわからないけれど)月島に向かい、もんじゃも食べずに隅田川沿いに座ってぼんやりするのがお決まりのコースだった。

月島に到着するのは毎回昼過ぎ〜夕方にかけてだった。夕暮れの隅田川はとってもキレイで暮れなずむ街に浸りまくる、年相応と言えば年相応、親父臭いといえば親父臭いような感じだった。”暮れなずむ”ってことばは、「贈る言葉」以外で使われているところを殆ど聞かないけれど、結構良いことばだよね。さすが金八先生

”なずむ”の中には、商店街で買い物をするおばちゃんとか、部活帰りの学生とか、次第に長く薄くなっていく住宅の影とか、ママチャリかごの中で弾むオオゼキの袋とか、色々と混ざっていると思う。本当の意味は知らない。

そもそも言ってしまえばことばに本当の意味なんて存在しない。多数派と少数派の使われ方があるだけであって、正解とか間違いとかがあるとは言えない。

あるとすれば、相手に伝えたい事を届けるための媒介として機能しているか、ってところだと思う。

けれど、だれにも伝わらない言葉だって、自分でニュアンスを感じ取れてさえいればそれもまた正解と言える。

「言葉は原理的に壊れ続けている」と、寺山修司か誰かが言っていたらしいが、壊れると同時に修復も始まっていて、どんどんスクラップ&ビルドを繰り返す中で、キリストの絵画をめちゃくちゃに修繕しちゃったスペインかどっかのオバサンじゃないけど、元の形から常に変わり続けているので、新しい使い方はどんどん行って行くべきだと思っている。担い手は勿論女子中高生の皆様ですね。

 

2回ほど乗り換えをおこなったけど、元の路線に。

それで、隅田川のマンションに憧れながら、自転車で来た道を戻っていく。(これがまためんどくさい)

たしかあの頃は、9mmとか、ミッシェルとかを一生懸命聴いてた時期だったと思う。9mmもミッシェルも全然聴かなくなっちゃったけど、たまに聴くとやっぱりカッコイイのです。

あとは、今でも聴いてるけど、椎名林檎東京事変はあの頃の僕にとってまごう事なき神として君臨していて、ソロ作品の『私と放電』『教育』に入っている「夢のあと」(平成風俗のほうは、あんまり好きじゃなかった)『娯楽』に収録されている「私生活」、は永遠に鼓膜と脳裏に焼き付いたままなんじゃないかと思う。

まだ5,6年しか経ってないけど。